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In my life.
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・さて自身の存在の証明について。

こっちに書くならあっちに中途に書く必要も無いのだけれど。
そこはご愛嬌。





自身の存在を証明することはできるのか。
私の結論は、自分自身では不可能ということになる。


観測されることによって事象は収束する。
という話が在る。

箱を開けるまで猫は生きることも死ぬこともない。
そして死んでいて生きている。
これは有名な例え話。
実際に行われた実験だそうだが、実際に行われたかどうかは誰にも判らない。

一応詳しく書くとこれは「シュレディンガーの猫」というはず(うろ覚え)。外からは全く中を観る事の出来ない箱の中に猫を入れる。それと一緒に50%の確率で毒ガスを発生させる装置を入れる(これは読む本によって違った。毒ガスは在っても無くてもきっと同じ事)。そうした時、中に居る猫は、半分死んでいて半分生きていると言う。という話だ。

つまり、観測されないとそれはそこに無い。
そうこの存在とは、世界においての立ち位置、ということ。

しかしここでもう一つ有名な言葉を出そう。
我思う故に我在り、という言葉を。
あなたも一度は聞いた事があるのではないだろうか。

この言葉は確か大ざっぱ且つ個人的記憶の限り説明すると、「身の周りにあるものなんか実際に在るのかどうか判らないけど、そんな事考える自分は考えてるからこそ存在するんじゃないか?」という感じの意味を醸し出すものである。

なる程、理に当っている。
しかし、しかしだ。更にもう一つ有名な言葉(うろ覚え)を。
自身は自身の観測者たり得ない。
つまり自分自身を観測する事はできない、という言葉である。

と、するとここで矛盾が生じる。
自身を観測できないなら、我思うだけでは、存在は確定しない。
するとどちらかの言葉が間違っているのか。

いや、間違っていないだろう。
私が思うに「我思う…」というのは突き詰めて曖昧な世界に対しての自分の存在の確認だ。
それに対して今回私が考えているのは、その世界においての自身の存在。
自分、という存在を自分で確信しても、それは世界に存在するという証明には足りない。
箱に私が詰められて、私がいくら我思おうとも世界は私を観測できない。
だからその場合私は存在しない事になる。

と、いきなりここで話が飛ぶが、勿論不在の証明はあまりに不可能だと私は思っている。
それは恐らく当然の事であり前提として心得ていてもらえると嬉しい。

本題に戻ろう。もうあなたにはオチが見えてるかもしれないが。
観測される事が唯一自身の存在の証明を可能とする。
しかもそれは過去では、記憶や記録では全く当てにならないと私は考える。
それは以前書いたような気がする、「過去の証明は非道く難しい」という考えからである。
不可能ではないかもとは思うが、“過去”程当てにならないものもこの世には少ない。

そこで、私はこう結論付ける。
常に自分を第三者に観測される事でのみ人は自身を証明できるのだ、と。

テレビでもネットでも本でも文章でも写真でも声でも、不完全だ。
目の前に人がいて、私を見て私の声を聞き私を考えてくれる人がいて、そこで初めて。
私はこの世界に存在するんだ。

まぁそんな事をつらつら考えてみただけ。





空は明日を始めてしまう





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ばっとまーん。
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by n-shunzo | 2006-01-25 00:40 | 思考